文永の役(1274年10月)弘安の役(1281年5月)神風が日本を守ったと言われているが、
真実は鎌倉武士の活躍にあった。
モンゴル帝国第5代皇帝フビライ 日本へ書簡を送る
南宋を攻略するにあたり、日本と南宋の仲を切ろうとした。
理由は、日本から南宋へ輸出される硫黄が火薬の原料となり、南宋攻略に苦慮していた。
北条時宗は書簡の中に武力で脅す内容に怒り無視する。
1274年10月文永の役 900隻3万人
対馬 宗助国80騎全滅 豆餅
壱岐 大刀洗川、むくりこくり(蒙古高麗)
博多 毒矢、てつはう(爆弾)、高台から太鼓、どらを使い統率した軍隊に日本は苦慮
☆流鏑馬 100騎で反撃 ⇒ 蒙古軍 撤退
1279年2月 フビライから再度書簡が送られる
荘厳寺 高野山から波切不動産が送られ祈祷
元寇防塁 生の松原 20Km
1281年5月弘安の役 高麗から4万人 志賀島を占拠、日本軍と攻防が続く
南宋から10万人
7月1日から7月4日まで台風(神風)が蒙古軍を襲う
鷹島の沖 2015年 蒙古の沈没船2隻発見される
7月5日 最終決戦 糞尿を煮た汚物を船に投げ込む ⇒ 蒙古軍撤退
竹崎季長(すえなが)宇城竹崎地区出身 蒙古襲来絵詞の制作を指示 ⇒交差神社に寄進
恩賞で宇城海東を得る